株トレードの真実をもとめて「相場メンタル瞑想記」

東証という無理ゲーを生き残るための精神を考察する会

スティル・ライフを読んで思ったこと

 

池澤夏樹著「スティル・ライフ」1991年出版、芥川賞受賞作であるが

私は2016年の8月初めて読んだ。しかし、これが遅すぎるというわけではない。(と思っている)

私が今より前に読むことはおそらくなかっただろうし、今より後に読むこともおそらくなかっただろう。

まさに今というタイミングで出逢えた事にこそ意味を感じたい。

 

あまりネタバレするのもあれなので少し控えるが、

まるで繊細で歌詞のないひたすらに美しいインストゥルメンタルの音楽を聴いているような、

時には深みのきいたジャズが聴こえてきそうな前半の美しい描写は、

「これに相場がどう絡むの?」と思わせた。

相場といえば歓喜と熱狂の饗宴(しばし惨劇と)にあふれたそれを描かれるかと思いきや

全体に漂う静まり返った自然がたゆたうような世界観。

今であること、ここであること、

ぼくがヒトであり、連鎖の一点に自分を置いて生きていることなどは意味のない、意識の表面のかすれた模様にすぎなくなり、

大事なのはその下のソリッドな部分、個性から物質へと還元された、

時を超えてゆるぎない存在の部分であるということが、その時鮮やかに見えた

 

 雨崎での雪の描写がとても好きだ。

でも彼女と行ったり人数でワイワイ行ったり、というくだりから

私は「ぼく」にいまいち感情移入はできない。

そんな場所には一人で行くのが正解に決まってる、と私は思うからだ。 

 

 それもまた人の手が届かない部分、人は結果を見るしかない部分だろう。

こういうもの、見えない真実のようなものは必ず存在する。

私は信じているし信じている理由ならある。実際に私が体験しているからだ。

 

ここから勝手に感情移入してしまうが、

私は「ぼく」のように

ふらふらした人間だった。

でも今は「佐々井」の覚悟の足元にも及びもしないが、

ふらふら人間では、もうない。

 

佐々井は寡黙で哲学的でどこか諦めていて、

それでいて相場は神がかっていて格好いい。

誰にも頼らず一人でやっているのが尚更格好いい。

ここからは完全に個人的な憶測だが、

昔からそうだったのだろうか?相場に関する天賦の才はあったろうが

それ以外は「ぼく」のように中途半端なガールフレンドとかがいたりしてたのではないか?

などと思ってしまう。それが何かのタイミングで人間性をも変える

・・みたいな事は有り得るんだろう。

 

そういう意味では酒をのみながら哲学的な宇宙の話で会話がが弾む二人は

似た者同士だと思う。こんな友人が私も欲しかった。

 

この本が発表されたのは日本のバブル期であった。

当時の取引方法は電話や対面注文だった。

これが現代であればどうだろう?

株の取引方法も当時とは異なる訳でネットを介して佐々井が直接操作する事ができる。

今の状況だったら少し物語は違ってくるのかもしれない。

「ぼく」が次第にトレードに興味を持って佐々井に弟子入りを志願する、

そんな展開だって十分にありえると思う。

 

私の希望的な物語の続きは、

「ぼく」はきっと佐々井のことをいつまでも忘れないし、

いつかその姿を思いだしながら株をはじめる。

佐々井の背中を追いかけるように。