スティル・ライフを読んで思ったこと
池澤夏樹著「スティル・ライフ」1991年出版、芥川賞受賞作であるが
私は2016年の8月初めて読んだ。しかし、これが遅すぎるというわけではない。(と思っている)
私が今より前に読むことはおそらくなかっただろうし、今より後に読むこともおそらくなかっただろう。
まさに今というタイミングで出逢えた事にこそ意味を感じたい。
この本を読んだきっかけは以前から全力さんが影響を受けた本としてツイートしていたから。
もっと前に読む事は出来たが、特に理由は無いけどなんとなく今になった。
読み終わって理解した、私の中の見た風景が重なっていた。読んだのが今になった運命的な理由は必ずあるような気がする、と思った本。
最早、時代は音楽も文学も漁り放題で消費する側は常に水道の蛇口を回す様にそれらを手にする事ができる。そんな恵まれた環境に於いても出会った事のない本はあり聴いた事のない曲はあるものだろう。それは何故か?「まだ出会うべき時じゃないから」で出逢うべくして出逢った時にはそれに気付くものだ。
あまりネタバレするのもあれなので少し控えるが、
まるで繊細で歌詞のないひたすらに美しいインストゥルメンタルの音楽を聴いているような、
時には深みのきいたジャズが聴こえてきそうな前半の美しい描写は、
「これに相場がどう絡むの?」と思わせた。
相場といえば歓喜と熱狂の饗宴(しばし惨劇と)にあふれたそれを描かれるかと思いきや
全体に漂う静まり返った自然がたゆたうような世界観。
今であること、ここであること、
ぼくがヒトであり、連鎖の一点に自分を置いて生きていることなどは意味のない、意識の表面のかすれた模様にすぎなくなり、
大事なのはその下のソリッドな部分、個性から物質へと還元された、
時を超えてゆるぎない存在の部分であるということが、その時鮮やかに見えた
雨崎での雪の描写がとても好きだ。
でも彼女と行ったり人数でワイワイ行ったり、というくだりから
私は「ぼく」にいまいち感情移入はできない。
そんな場所には一人で行くのが正解に決まってる、と私は思うからだ。
私が読書が好きな理由でもっとも大きいものはその時に出会うべき言葉に出逢えるから。
何故、これまでも読めたかも、出逢えたかも知れないのにのに出会わなかったのか?それは「運命だから」としか説明ができない、不思議な感覚。言葉にするほど嘘っぽくなるけどそれが本当だから仕方がない。
それもまた人の手が届かない部分、人は結果を見るしかない部分だろう。
こういうもの、見えない真実のようなものは必ず存在する。
私は信じているし信じている理由ならある。実際に私が体験しているからだ。
ここから勝手に感情移入してしまうが、
私は「ぼく」のように
ふらふらした人間だった。
でも今は「佐々井」の覚悟の足元にも及びもしないが、
ふらふら人間では、もうない。
最も共感したのは佐々井の「いわば僕は透明人間になった」と云う言葉だ。私が抱えたものなど彼の足元にも及ばないだろうが、私は私なりの相当な決意を持って勤め人を辞め居住先は本人死亡扱いにして郵便受け取りを拒否し北へ移住し携帯の番号も改番し、周囲を完全に絶った人間なので理解できるつもりだ
自分は物心ついた幼少から今までずっと他人を避け続けた。「ずっと見えない相手を避けて暮らしてきただろ。だから相手は見えないだけじゃなくて、初めからいなかったような気がする」
今から読む人の為に言っておくが私が勝手に共感して居るだけで、安心してくれ。物語はちゃんと、もっと壮大だから笑
佐々井は寡黙で哲学的でどこか諦めていて、
それでいて相場は神がかっていて格好いい。
誰にも頼らず一人でやっているのが尚更格好いい。
ここからは完全に個人的な憶測だが、
昔からそうだったのだろうか?相場に関する天賦の才はあったろうが
それ以外は「ぼく」のように中途半端なガールフレンドとかがいたりしてたのではないか?
などと思ってしまう。それが何かのタイミングで人間性をも変える
・・みたいな事は有り得るんだろう。
そういう意味では酒をのみながら哲学的な宇宙の話で会話がが弾む二人は
似た者同士だと思う。こんな友人が私も欲しかった。
互いの世界がどちらにも凭れかかる事なく平行なだけで、交わらなくとも隣り合って存在しているのではないか。分子と分子が勝手にくっついてある特定の微妙な色を作り出す。人と人に於いても染色と同じでそれぞれの厳密に違う色、形になる。としたらぼくと佐々井の友情は理想的かもしれない。
「ぼく」は将来株を始めるんじゃないかな?
短い期間だけでもきっと彼から相場の事を学んでいるはずだしやり方を見ているだろう。それに二人は打ち解けられた。
ぼくにも佐々井のような要素はあり二人は似ている。多分相場をはじめてみれば伸びるかも、佐々井もそう思ったんじゃないかな?
この本が発表されたのは日本のバブル期であった。
当時の取引方法は電話や対面注文だった。
これが現代であればどうだろう?
株の取引方法も当時とは異なる訳でネットを介して佐々井が直接操作する事ができる。
今の状況だったら少し物語は違ってくるのかもしれない。
「ぼく」が次第にトレードに興味を持って佐々井に弟子入りを志願する、
そんな展開だって十分にありえると思う。
私の希望的な物語の続きは、
「ぼく」はきっと佐々井のことをいつまでも忘れないし、
いつかその姿を思いだしながら株をはじめる。
佐々井の背中を追いかけるように。